痛みをも忘れる程に

リーマン松川と居酒屋


 ああ、いつもそうだ。後悔するのに学習しない。反省するのもその時だけ。絶対やる、明日からそうすると誓った次の日からもうどうでも良くなってまた失敗を繰り返すのだ。

さん? どうしたの、具合悪くなった?」

 そう声をかけてくれたのは先輩の松川さんだった。
 週末の居酒屋ともなると仕事帰りの団体客で一段と賑わっていて、まぁ、その中の1組がうちの課なんだけども。 時計を覗けば、親睦会という名のサービス残業は既に2時間を軽く超えていた。

「いえ、あの、酔って具合が悪いとかではなくて…… 」

 歯切れの悪い返事に松川さんの頭の上には「?」が浮かんで見えた。 なんとなくホントの理由を濁してしまったのは、目の前にいるのが松川さんだったからかもしれない。

「まあいいや、とりあえず立てる?」
「あっ、ちょっ、待ってください」

 腕をぐっと引き上げようとする松川さんを慌てて制す。 また頭の上にポンと「?」を浮かべた松川さんが掴んだ腕を離せずにいるのを察した私は、これは正直に言うしかないな、と諦めた。

「あの、実は…… 腰が痛くて動けないんです」
「え、腰なの? なんだもっと早く言ってよ」

「手、離すぞ」と力を緩めた後、スッと目線の高さに下りてきた松川さんの顔が思いの外近くて思わず仰け反る。当然、腰にはピリピリと痛みが走った。

「随分と辛そうだな、ヘルニア?」
「それもありますけど今回はそうじゃなくて…… 」
「ぎっくり、か?」

 あんなに躊躇っていた「ぎっくり」というワードをこんなにもバッサリ言われるといっそ清々しい。こくりと頷くと「すぐ戻るから」と言って松川さんは居なくなり、そして、その言葉通りにすぐ戻って来た。

「ここ、通路で邪魔になるから移動しよっか」
「ですよね、すみません」
「俺に掴まったら立てる?」
「え? いや、そんな、大丈夫ですよ」
「何言ってんの、大丈夫じゃないからこうなってるんでしょーよ」

 ぐうの音も出ないとはこの事である。掴まり所のないこの場所では難しいのは確かで。「ホラ」と差し出された手を受け入れると、そのまま松川さんの腕の中に引き寄せられた。

「大丈夫? 辛くない?」
「はい、大丈夫です」

 心配してくれる松川さんを余所に、立ち上がってしまえば痛みはそこまで酷くもなくて。 今は腰の痛みよりも、松川さんに肩を抱かれているこの状況を誰かに見られてたらどうしようとか、どうしてこんなに優しいのか?とか、お酒と微かな煙草の香りに混じっていい香りがするな、なんて事ばかりが頭の中を占領していた。
 ついさっきまで、痛みで半泣きだったというのに単純で笑える。

「お店の人に言ってちょっと部屋借りたから」

 そう言って、そこからすぐの個室の前で立ち止まる。
 さっき居なくなった時にお店の人と話してきたんだな、というのは理解が出来た。しかし、何の為に? 私の理解が追い付かずボーっとしている間にも松川さんは、お客さんが帰ったばかりで片付いていない部屋の座布団を除けたり丸めたりしている。

さんさぁ、悪い様にはしないからちょっと俺に身体預けみてよ」

 身体を松川さんに預けるとは?
 脳の情報処理機能が完全に停止した。

「ね、さん聞いてる?」
「えっ、あ、すみません、ちょっと仰ってる意味が……それはどういう……」

 そんなの決まってるでしょ、と言わんばかりに「マッサージだよ」と返ってきて、そっか、そりゃそうだよねと納得。一瞬でも変に意識してしまった自分が恥ずかしい。

「俺、昔ちょっと真面目にバレーやっててさ、怪我だけはしたくなかったから勉強してメンテナンスはきっちりとやってたんだよね。だからさ、ちょっと俺に身体預けてみてよ。それじゃ帰るのも辛いでしょ?」
「それはそうですけど……松川さんにご迷惑ばかりかけてるから申し訳なくて」
「そんな事気にしてんの? じゃ、今度メシでも奢ってよ、それでいいでしょ」

 きっと、松川さんにとっては目の前に困ってる人がいたから助けたくらいの感覚でしかなくて、迷惑とかそんなこと考えてないんだ。特別なことじゃないと思うと少し寂しくもあったけど、一緒にごはんに行けるチャンスが転がってきたのは素直に嬉しかった。やはり単純だ。
 ポンポンと丸めた座布団に頭を乗せるよう促され横になると「ちょっと触るね」そう言って左右の足をゆっくり伸ばしたり曲げたりしてゆく。

「これは痛い? じゃ、こっちは?」
「少し痛いです」
「筋肉がだいぶ張っているみたいだから、少しマッサージするね」

 痛む所を確認すると軽く摩る様にマッサージを始めた。独学で学んだわりには本格的で、目を閉じればここが居酒屋だという事も忘れてしまいそうになる。

 松川さんの手はアルコールを含んでいる所為かじんわりと温かい。その手が触れる度に筋肉の張りとはまた別の緊張感で身体が強張ってしまうのがよくわかる。悟られないように邪念を振り払おうとするが、時折鼻先を擽る松川さんの香りがそれを邪魔をした。

「さっき、なんですぐぎっくり腰って言わなかったの?」
「この歳でぎっくり腰なんて、なんか恥ずかしいなと」

 ぎっくり腰と言うとだいたい「まだ若いのに」なんて言葉が返ってくるのに、松川さんは小さく笑いながら「そんなことないでしょうよ」と言ってくれた。

「でも、少し筋力つけないとダメだろうね」
「やっぱりそう思います? 病院でも言われるんですけど、なかなか」
「ストレッチするだけでも全然違うと思うよ」

 腰を痛くする度に、運動しよう、運動しなきゃダメだってわかってるのに続かなくて結局また腰を痛めるという負のループを繰り返している。今日も「今度こそちゃんと運動しよう」と何度自分に言い聞かせたことか……

「はい、いーよ、ゆっくり起き上がってみて」

 肩をトンと叩かれて特別な時間は終わりを告げられる。 ゆっくりと身体を起すとさっきまで油の切れたロボットみたいにぎこちない動きが嘘みたいに軽い。神様!松川様!そんな気持ちで松川さんを見つめると、こうなる事が分かっていたかのように「応急処置だから、無理しないで」と笑う。語彙力を失った私は「凄いです」と「ありがとうございます」を繰り返し、またクスクスと笑われた。

「腰、治ったらメシな」
「もちろんです!なんでも好きなもの御馳走させてください」
「なんでも、ねぇ……」

 訝しそうにこちらを見る松川さんにハッと我に返る。勢いで「なんでも」とは言ったものの、「なんでも」いいことは無い。松川さんに限って後輩に無茶振りなんてしないだろうが、牽制しておいた方が無難かもしれない。

「あ、でもそんな高級なものとかじゃなく私でもご馳走できるものだと助かります」
「うん、それは大丈夫」

 松川さんの「大丈夫」にホッと胸を撫で下ろし、私たちはまた親睦会と言う名のサービス残業に戻る。幹事の人がバタバタといている所を見ると丁度お開きになる所のようだ。
 お酒が入っているせいか、30分くらい抜けていても案外誰も気にしていないもんで「タバコ吸ってから戻るから先に戻っててよ」と気遣ってくれた松川さんも苦笑いしていた。

「あーやっぱり好きだな」

 地下鉄を待つホームで交換したLINEの名前を見ながらポツリと呟く。松川さんにとってただの後輩だとしても勝手に高鳴る胸が熱い。松川さんが言った「大丈夫」の真意も「好きなもの」が何なのかも、この時の私はまだ何も知らない。

痛みをも忘れる程に/20190417

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